第二次~五次発掘調査に参加稲葉 芳江さん
昭和7年(1932)生まれ
発掘調査参加時:不二高等女学校(現在の静岡雙葉高等学校)2年生~5年生

登呂発掘調査に参加したきっかけ

元々、考古学に興味を持っており、兄などが先生をしておりますので、私が発掘をしたいといっても反対する人は誰もおりませんでした。日本の国は大事だと心の中で思っていたので、考古学は必然的に興味を持ったのだと思います。考古学をするにあたり、皇后陛下(現在の上皇后陛下)を教育した先生が私たちの校長先生でありまして、先生は「考古学をするために登呂遺跡まで発掘に行くならばお稽古の方は絶対サボってはいけないよ。」と言って、英語とピアノなど全てをやった上で発掘調査に参加していました。

発掘調査時の役割

発掘調査時の役割分担はありました。私は小さいし女だからお米と調べものを行いました。みんなが掘って出てきたものを記録する役割です。重いものは周りが持たせなかったです。男の人が一生懸命掘ったものを並べて、私は写真機はその頃使えなかったから、並べたものを「これは何。これは何。」といって手で書いていたのだと思います。

発掘調査への参加ペース

私は週2日くらいですね。午後来たときもあったけれど学校があった時には来たのかどうか。夏休みは毎日来たと思いますがよく覚えていません。一日大体3時間くらい参加していたと思います。

発掘調査時の服装

夏は半袖で白いブラウスで通っていたと思います。和洋(現在の静岡女子高等学校)の人と精華(現在の静岡大成中学校・高等学校)の人はスカートでした。ズボンなんてしゃれたものは無く、モンペでした。ほとんどこの頃はスカートでした。(学校の制服 ということですか?)そうですね。この服は今でも残っています。(他の方々の話だとモンペを履くことが嫌でスカートを履いていたという話を聞いたことがあるのですが、実際にそうだったのですか?)そうです。間違いないです。


※:不二高等女学校制服

発掘調査時の食事

食糧難でジャガイモしか食べさせてもらえませんでした。農家の人がとても親切でジャガイモを分けてくれて、知り合いの人が貰いに行ってくれたようです。発掘調査のときも農家の人がジャガイモや他の野菜を分けてくれて登呂の発掘調査に来ていた人を助けてくれていたみたいです。

発掘調査で楽しかったこと

「~が出たよ」という言葉を聞くとみんな興奮して嬉しかったです。例えば土器でも全体がしっかり出ないで、片方だけ出る場合があるのですが、そういうかけらでも「出てきたよ。」という声が上がるとみんなで「わー」となって楽しんだものでした。他に楽しみはないのかなと若い人たちには思われるかも知れませんが、非常にそのことに感激しました。土の中から出てくるものに「昔の人はこういうものからどのようなものをつくったのかな」という思いを巡らせました。

発掘調査で苦労したこと

一番は交通機関が無いからここから学校までの移動が苦労しました。しかも発掘をした後の行き来を徒歩でしていたので、ジャガイモだけでよくできたなと。でもみんな同じように苦労していたと思いますから、みんなどうしていたかなど聞くことは無かったです。

発掘調査 感想

発掘調査に参加して、自分がやりたいことをやったことで気持ちが楽になりました。それまでは私は恥ずかしい話だけれども、姉や兄がいつもいて、更に高校まで女中さんがいて私自身は何もしなくてもいいような環境にいました。だから世間を知らなくて通ってしまっている部分がありました。

発掘調査後

私も歴史の方に進みたかったのですが、(進路選択で)学校の歴史科目はひとりだけしか選ばない体制だったので、私は経済の方にいきました。みんな東京へ行くとか横浜へ行くとかで出て行って住んだけれども、私は登呂遺跡の郷土研究部に残ると言って私の仲間の中ではひとりだけ静岡に残りました。

今は沢山の建物が出来てしまったけれど、この辺りは昔、良い土地だったと思います。私もそれでここに住むことを決めましたので。世の中がこのようになってしまったけれど、登呂遺跡は今後も残して頂きたいですね。

一覧へ戻る