第二回発掘調査に参加木川 皖さん
昭和3年(1928)生まれ
発掘調査参加時:法政大学専門部商科1年生

登呂発掘調査に参加したきっかけ

今の駿河区南町にある、大橋という土木業者がいて、その人が登呂の土地を発掘して土上げをしたときに、大きな木製のものを見つけてそれを葵文庫の加藤忠雄さんのところに持って行ったそれ(昭和18年のこと)がきっかけです。大橋さんが家のすぐそばだったので。僕が市高(静岡市立高校)一期生の頃で15~16の頃です。

参加したいと思ったのは興味があったからです。それに安本(博)先生とは学生時代に中田の官舎を訪ねたことがあって、お宅へ出入りして考古学について関心が深まったということです。先生のところで発掘した遺物を見せられて。自分は安本さんを知っていたので「僕と一緒に発掘すればいいよ」と言われて参加しました。

登呂発掘調査前の考古学に対する関心

発掘まではいかないけれど、魚とりも好きなので、今の自転車道路のところから川に入り、川の土手の崩れたところから須惠器のようなものを見つけたことがありました。現在の南幹線付近は当時梨畑でした。大きな甕の一部があるのではないかと思って農家の人に断って入ったら、やはり破片がありました。

発掘調査に参加した感想

有名な先生の下で発掘指導を初めて受けたので非常に参考になりました。

発掘調査時の皇太子殿下の見学

僕がちょうど一号遺跡を発掘している時に当時皇太子殿下(現在の上皇陛下)がおいでになりました。小学校5~6年生ぐらいだったと思います。中には反対する学生もいましたが。

発掘調査時の役割

一号住居の発掘をやっていました。(当時)バスが着いて、少し南に下ったところ。あそこの土は静岡大学の方から小さな機関車で運んで来ていました。 僕は発掘、掘る作業です。僕らが発掘した時は、銅のブレスレット※1 が二つ重なって出てきました。これは雙葉(女子高校)の女学生が見つけました。1号住居の真ん中から火起こしの道具のようなものも出てきました。あと、木製の剣のようなもの※2も出てきて、大学の先生に「これは剣の模造でしょうね」と聞いたら「そうだろう」とのことでした。

  • ※1:銅環
  • ※2:剣・刀形木製品

布も出てきました。布は糸を締めるのに使ったのだろうと思います。木の匙のようなフォークのような小さいものも、1号はわりとよく出ました。一番疑問に思ったのは、1号住居、2号住居のその横に、一抱えくらい(直径90cmくらい)の大きい木の台があって、それが三つ並んでいました。それは「お祭りの遺跡じゃないですか?」と先生に聞いたのですが、先生はわからないみたいでした。

発掘調査時の食事

僕らは弁当を持って行っていました。現場でじゃがいもを貰って(おやつとして)食べていました。現場に井戸がひとつ掘ってあったのですが、硫黄臭い水が出ました。登呂も臭い水が出ました。市中は当時回りが田んぼで稲作をやっていました。水もじゃがいももあったので苦労したということはないですね。大塚さんは食糧難と言っていましたが。

発掘調査で楽しかったこと

1号の真ん中を掘って色々なものが出てきて、ちょうど僕が掘った時に皇太子殿下がおいでになりました。杉原(荘介)さんは「文部省の杉原です」なんて自己紹介していましたよ。

発掘されたもので印象深いもの

一番は火起こしの土台(火きり臼)です。それも1号住居から出ました。それから、水の中に入って掘っている時に学生の一人が「何か引っかかった」というので見たら田下駄でした。(発掘は水の中から取り出すということが多かったですか?)そうですね。発掘されたばかりのものは牧牛寺に水溜りのような小さい池があってその中に漬けていました。発掘された木製品は(崩れることなく)動かせました。固くはないけれど干すとスカスカの状態でした。

発掘調査参加者との交流

話はしました。まだ男女別でうるさい時代だったので、発掘調査で初めて女学生と話をしました。当時はバスが走っていないから歩くのが普通でした。「登呂の街道は恋の道」なんていう数え歌を作った学生もいましたよ。

発掘調査参加後

1年に1回は登呂祭りなど催しに参加させてもらっています。現在デイサービスに行っていて土曜日に時間があるので、娘の車で連れて行ってもらっています。もちの家で安倍川もちを食べたりします。

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