第二次発掘調査に参加三浦 顕一さん
昭和7年(1932)生まれ
発掘調査参加時:静岡工業学校(現在の科学技術高校)併設の新制中学3年生

発掘調査に参加したきっかけ

日本は敗戦当時で落ち着いていない状態で、私は当時の日本について文化国家にならなければ、このままでは駄目になってしまうのではないかと話をしておりました。その頃、文化連盟という市内全部の中学が文化に関することを何か行っていこうという運動があり、静岡高校の学生が音頭を取って連盟を作りました。その中に芸能部や音楽部がありました。私は連盟の部の1つに考古学を提案して、文化連盟の中の一部ですが、登呂に専念した会を作ろうとしました。そして、クラスの二、三人に声をかけて、他の学校にも行きました。

実際に色々な学校に行ってみるときれいな学校から、土足であがっている学校もあり様々でした。一緒に行った福地君という友達、もう亡くなってしまいましたが、福地君がその違いに驚いていました。主な中学は大体歩きました。当時は他の学校に行く事はとても勇気が必要でした。男子学校も同じです。まずは歴史の先生に面会して、このような趣旨でこのようなものを行いたいということを申したら、先生は「大いに結構です。」と言ってくれました。そして、賛同してくれた学生が4~5人で、旗揚げの講演会をやろうということになり、名前を失念しましたが、先生に来てもらいました。

発掘調査参加への呼びかけ時のエピソード

当時は女学生もいっしょに学校を回って勉強しているわけで、ある学校には因縁もつけられたりしました。昔の兵舎の跡に連れて行かれて、なぜ女学生を連れているのかと問われたりもしました。女の子と一緒に歩いていることが、面白くなかったのだと思います。最初のころはある女学校の場合、先生が発掘現場まで付いてきました。自分の生徒が心配だったのかもしれません。今では信じられないと思いますが。

発掘調査時の役割

安本博先生には色々教わりました。安西小学校の先生だったと思います。安本さんはこういう発掘などが好きで、私たちは安本さんの連絡係というか、発掘が始まると安本さんが「~学校代表は何時に集まるように」と指示を出して、私たちはそれを連絡する係でした。このように安本さんが発掘の際の指導をまめに行ってくれました。私は発掘担当ではなく、どちらかと言うと上で発見したものを報告していました。自転車も無いので全て歩いて行いました。

発掘調査への参加ペース

普段は学校が始まれば学校に行かなければならないので、毎日ではないですね。夏休み期間は週何回か忘れてしまいましたが、8月の終りには皆で解散した事は覚えています。

発掘調査報告のラジオ出演

1度出演しました。

発掘調査時の皇太子殿下の見学

覚えています。その時は発掘作業を止めてお迎えするようにと言われました。(写真を見て)ここに並んでいるのは私たちです。天皇陛下(現在の上皇陛下)は堤防みたいな所に上がって、(発掘の様子を)ご覧になってから、帰られました。

発掘調査で楽しかったこと

やはり、物が出たときが一番楽しかったですね。

発掘調査で辛かったこと

お腹がすいたことですかね。学校が始まってからの方が辛かったです。終戦後の食糧難で、静岡はまだ気候面で恵まれていたほうですが、畑があればさつまいもなどもできたのですが、北の地域では食糧がなくなってしまうようでした。差し入れは無かったと思います。学校では芋でも握り飯でも学校へ付くとすぐに食べました。そうしないと昼休みまでに食べられてしまっているからです。それくらい空腹の時代でした。山の方が雑草などあってそれでも食べられるものとして食べていた時代です。

発掘調査後

その時は考えていませんでした。食べていくことがやっとの時代で、私は長男で父母と妹が3人いて、父は戦争中に結核にかかってしまい、大変な時期でした。私たち同級生50人卒業して、その中で健在なのは16人しかいないですね。今は同級会も人数が少なくなってできなくなってしまいました。

望月董弘氏とのエピソード

望月さんは家が静岡工業学校の近くでした。彼が遺物に興味があることを知らなかったのですが、一度家に行ってみたらたくさん遺物が積んでありました。先生に話したら先生も興味を持ち、望月さんの家に行きました。先生は望月さんについて、「集めて何か研究するというようより、集めることが楽しみなんだろう。」ということを言っていました。望月さんは収集家でしたから。私は掘って何か出てくる方が楽しかったです。

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